言語と思考 3 表現すること

考えたことをココに書くことによって前に進むと信じる、みんなでそれをするためにこのサイトを作ったと、昨日書いた。コレはもちろん言葉のみを指すのではなく、自分にとっては写真で表現することでもあって、このサイトに自分の撮った写真を載せることも何らかの意味があると考えてる。

人間同士のコミュニケーションは大半が言葉に頼っていると認めざるを得ない。でも自分は、言いたいことをいつも言えてない、いつもだ。自分の中にある気持ちを完全に言いえるような言葉は見当たらないし、自分から発した言葉は受け取る人の持ち物になる。言葉は他人が作ったものという気持ちが強いのかもしれない。もちろん他の表現手段にも言えることだけど、完全に伝える手段なんて存在しない。でも、だからこそ、コミュニケーションが成立するんだけどね(そこに必ず誤解があるという前提があるから話そうとする)。自分が言いたいのは、つまり、言葉を絶対視できないということ。一枚の写真が百万冊の本に優る表現を持つことだってあるでしょ。

さて、昨日の文章を書いて思ったのは、表現することによって思考が生まれてるんじゃないのかなってことだ。まだ深く考えてないから分からないけど。表現手段は何だっていい、写真でも絵でも音楽でも、ファッションでもいいし、その人の部屋でもいい。自分の表現によって思考が生まれ、思考によってまた表現が生まれる。そういうようなことじゃないかと。

こういうような話をくだらないと思う人もいるかもしれない、どっちだっていいじゃないかと。そう思う人はそれでいいんだ、間違ってないよ。だけど、自分は思考停止になるのが怖いんだ。
はあ。誰かこういう研究をしてる人を知ってるだろうか。言語学とかなのかな、芸術論?記号論? うーん、勉強が足りなくてあまりよく知らないけど、構造主義とかも関係ありそうだ。学びについてで引用した内田さんの本も読んでみたいな。興味深そうな感じがする。早く本を探せよ、自分。

いやいや、この話は長くなりそうだ。卒論にするかな(やけに社会学科っぽいじゃんね、いや哲学か。文化とかコミュニケーションにつなげたいので社会学でいくことにしよう)。本筋から遠のいていろいろ考えたりしてるから、いつまでも結論が出ない。仮説を立てようかとも思ったけど、そうすると見えるものが見えなくなるような気がして嫌だったから止めた。自分の立場を曖昧にさせておくのは自分の悪い癖だけど、立場を決めてしまえば本当のものを見ないフリをして簡単にウソがつけるようになる気がして怖いんだ。それが自分のスタンスだと思ってくれたらいい。はっきり言って、そんなのはまだまだ甘いですが。