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BOSS THE MC

  • 2005-10-03 (Mon) 8:20
  • Words

英雄史観 第2回: 宮沢賢治
TEXT: BOSS THE MC (THA BLUE HERB)
WOOFIN’ 1999年10月号


 「本来姿を持たないコトバ」を何とかしてオマエの心の根元に映すために、ただそれだけのために目の前のペンと紙はある。オレの肉体と心は「今思っていること」と同化してそれをどうにか「本来姿を持たないコトバ」で表現しようとしている。
 オレのコトバもみんなのコトバや写真と同じくここでは紙の表面にへばりついている。紙を破ればオレのコトバは正確な順列を乱し意味を失うし、火をつければ紙と一緒に灰になるだろう。あるいは発見されずに閉じられ部屋の隅で腐っていくかもしれない。コトバはペンを通してオレから離れた以上はもはやオレのモノではない。どこへいくのか? 読み手や聴き手の心だ。そこ以外に呼吸をできる場所はない。オレは誰に話しているのか? オマエにだ。オマエの(今、字を読んでいる)眼でも、ページを押さえている手でもなくオマエの心にだ。オマエにだ。どんな印象であれ、(好き嫌いはオマエのものだから否定はしないよ)、そこが晴れであれ雨であれオマエに記憶してほしくてオレはモノを書く。オレを。今オレが思ってることを。ヒマの垂れ流しみたいなモノはオレは書かないよ。いつ、どんな場でも。堅苦しい? ユーモアなら目一杯詰め込んでるつもりだけどな。
 コトバの力を最初オレは信じなかった。ただの「字」だと思ってた。そう思い込んでいた時間が長かった分だけ宮沢賢治のコトバにひどく打ちのめされた。それが直筆だったらまだその力もすぐに信じられただろう。魂が乗り移るのもわからなくはない。だけど、オレが読んだのは80年前に書かれたモノだった。何百回、もしくは何千回目かのコピーだった。そんなオレが生まれる前に東北の片隅で書き留められただけのコトバが、80年後に札幌の片隅の人間の心に容易に映像や音、怒りや悲しみ、苦しみ、痛み、そして喜びを見せる。単なる文字の組みかえではなく詩として。特定の誰かのためではなくコピーされたコトバがオレの心に入り込み、呼吸を始め、オレのコトバを倒し、結びつき、鍛えた。つまりひとりのラッパーを育てた。これまでもそしてこれからもいたるところでそうするように。宮沢賢治はこういった。いや正確にはこう書き残した。
  詩は裸身にて理論の至り得ぬ堺を探り来る。
  そのこと決死のわざなり。――
 オレのコトバがオマエにとって全く無益なモノならば、オレじゃなく誰かのコトバか、オマエのみたいモノを見ることを薦める。
 ヒマの垂れ流しのようなコトバがオマエに話しかけてきた時、オマエは全力でそれを拒否するんだ。なんの話かって? 無理解と無気力にコトバで断固闘いを挑むHIP HOPの話だ。

リルケに関連して。これは、自分がすごく感動した文章。1999年って言ったら16歳のときかぁ。
「ヒマの垂れ流しのようなコトバ」がそこらじゅうに溢れてる。
写真も同じだよなぁ。見る人の心に残るものを撮りたい。

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