Home > Tags > 大学

大学

卒部

ついにこの時が来た。写真部を卒業する。
2回も卒部式をやってもらった人は他にいないだろう。1回目は同期が卒業する時、自分は卒部するつもりだったけど直前に後輩に必死で引き留められて、決意決まらずにそのまま卒部式をやってもらった。その後、4月に入り桜を見て自分にしか出来ないことがまだあると思い直して写真部に残ることを決めた。
7年も写真部を続けた人も他にいないだろうね。1年生で入った時、3年生の先輩に「4年間写真部続けてね」と言われ、「はい続けます」と答えたのを今でもはっきり覚えている。7年間も続けることになろうとはその時は考えていなかった。学外展のアンケートで誰かに「出展女王」と書かれたが、本当にたくさんの展示をやったし作品を出させてもらった。
けど、今度は本当に卒部です。クラブの運営管理にあたっている学友会の方針で、この4月から過年度生はクラブにいられなくなるということが決まったらしい。でも学友会の方針以前に自分の中ではあらかた方向性は決めていた。自分自身の区切りとして、これが最後の展示になるだろうなと思いながら学外展に出品させてもらった。

たくさんの思い出、泣いたことも笑ったこともたくさんあった。胸がいっぱいすぎてありきたりの言葉しか出てこないけど、自分を支えてくれた全ての人に本当に感謝している。直接関わらせてもらった29期から38期 (A decade!) の写真部の皆々様、OBOGの先輩方、本当にありがとうございました。特に同期、迷惑かけっぱなしだったのに見捨てないで見守ってくれていたこと、本当にありがとう。写真部で好き放題やっていて、ちっとも単位を取ってこない娘を大きな愛で包んでくれる両親、家族に感謝。

後悔がないと言ったら嘘になる。正直言って写真部に居た時間は長かったしたくさん悩ませてもらったから。写真部を言い訳にして逃げていた部分もあったかもしれない。まだまだ自分にしかできないことを出来たかもしれない。
それでも、日本の創価大学に入り、目標を失ってた自分にとって、「写真」「写真部」との出会いは大きな大きな意味があったと思える。写真を通じて出会った友人もたくさん居る。写真を通して学んだことがたくさんある。写真があったから、この7年間どんなに苦しくても生きようと思えたと言っても過言じゃない。だから、これからの人生、自分がどう生きていくかを考えたとき、この写真部の7年間はとても大切で、さらに必然性を持っていくような気がする。
1年生の時、創立者から「学生閃光会」として命名していただき、さらに一緒に写真を展示させていただいた。そのことを生涯忘れず、写真を撮り続けること、胸を張って幸福勝利の姿で先生にご安心していただける人間になっていくことを決意する。

大学を辞めるのか問題

修士論文の代わりに退学願を提出してきた – As a Futurist…

一度会ったことのある riywo くんのエントリー読んで、自分も今悩んでることを書いてみたくなったんだけど、あんまり頭が回らないので、上手くまとまらないかもしれない。それでも久しぶりに書いてみることにする。

自分のことを知らない人には少し説明が必要かもしれないので。私は今大学の文学部社会学科に在学7年目(うち休学1年半)で、単位は卒業規定の半分ぐらいしか取ってないダメ人間であります。体調を崩した時期もあったけど、大抵途中で行かなくなったり最初から行かなかったり云々です。

今期は10月半ばまで順調に出席してたんだけど、ある朝突然に行く気がなくなった。多分疲れてたのもあるんだろうけど、その後の授業も試験も行かなかった。ここに来て悩むなんて9月の時には考えてなかったけど、もう在学8年のタイムリミットも近いし、辞めるのか本気で考えてる。

正直言って、ドロップアウトするのが怖いだけのような気もする。もう一度挑戦して失敗して傷付くことと、挑戦せずに諦めること、どっちにしても後悔が残る気がして、全然話が前に進んでない。「卒業したい」という理由だけでここまでやってきた。何十回も、散々自分に問いかけて諦めきれずに残ってきた。勉強は好きでも、「やりたくないことを無理矢理やっている感」があったのは確かだし、「寒い」とか「眠い」の方が上だったと思うと、自分の情けなさに死にたくなる。

「大学」「学問」とか、「教育」について、自分もいろいろ考えてきた。出席だけしていれば単位がもらえるなら、授業料を誰に払っているのか分からない。課題を出されても、単位を出すか出さないかの篩(ふるい)にかけられてるような問題に、Wikipedia があれば解決することをレポートに書く気はしなかった。高校生の時から、大学に行けば学問が出来ると過剰に期待してたせいもあって1年生で絶望した。全ては受け身になっていた自分のせいで、大学を責める気はさらさらない。

悩んでもそれを乗り越えて輝く姿を後輩にも両親にも見せたいと思ってるんだけど、今はどうしたらいいか分かりません。でも4月までには結論を出さなければいけないし、本当にこのままじゃ終われない。

現実的なあれこれ

ここにきて少し不安定。
頭が重かったり、苦しかったり、小さなことでイライラしたり。
洗濯物/洗い物/ゴミも溜まってるし、タバコも少し増えた。
なんでか分からないけど。秋だからかなぁ。

今日は授業が終わったあと、春休みの語学研修の資料をもらいに国際課に行ったら、
留学生に間違えられました。国際課の人なんだから、留学生の顔ぐらい覚えてください。

しかし、創大祭が終わってからの、1コマの授業に出たなんて自分じゃないみたいです。
何を言ってるのか分からないレベル。
情報社会論の先生が iPod, Mac, Apple批判をして、ユーザーとしては気分が悪いとか。
自分の後ろに座ってた2人が、授業始まってからしゃべりっぱなしで、うるさいと思ってたらスイーツパラダイスに行くとか言って出席だけ書いて出て行きやがったとか。
授業中にアイス食べてる人がいたとか。
大学って不思議、7年目ですが何か

これ全部 Twitter につぶやいたことのまとめ。

大学論

大学論

著者/訳者:阿部 謹也

出版社:日本エディタースクール出版部( 1999-05 )

定価:¥ 1,890

Amazon価格:¥ 1,890

単行本 ( 246 ページ )

ISBN-10 : 4888882924

ISBN-13 : 9784888882927


一橋大学の学長だった著者がいろんなところに出した原稿/スピーチをまとめた本なので、同じ話を何回も読むことになるけど、「教養」とは何か、大学とは何かということについて、分かりやすく理解できる本になっている。

まず、ヨーロッパで個人が発生したのは都市が出来て自分で職業選択の可能性が生まれてきたことと、内面が生まれてきたことが背景にあったことを説明している。内面を発見したことについては、キリスト教の浸透と、1215年のラテラノ公会議において告解(コンフェシオン)が制度になったことをきっかけにいかに、ヨーロッパの人々は生きるかという問いを持ち始めたという。
そして、教養の定義として、「社会の中での自分の位置を知ろうとする努力、あるいは知っている状態、あるいは知ろうとする努力の総体」としている。また個人の教養だけでなく「集団的教養」というものの存在を明らかにし、その定義を「自分たちが社会の進歩にどのように貢献しうるのかを知っている状態」として説明している。

「教養」というのは、何遍も言いますように、「古典を読む」というところから始まったように見えますが、そうではないのです。その前の段階があります。それは「自分はどうすべきかということを考える」ということ。これを敢えてやや抽象的にいえば「いかに生きるべきかを考える」と言うこと。 (p.55)

今日の教養という点では大学に入り、自分を知り自立した自分を発見し、社会と自分との接点を持つことが出発点となることを指摘している。

学生たちは親の絆から離れ、兄弟姉妹や友人との関係を整理し、自立した自分を発見し、そこで初めて世界に目が向くのである。 (p.174)

自分は大学に7年いて、この9月からまた授業に出ているけど、1年生の時に聞いた話が全然違う風に捉えられる。それは、自分と社会に対する認識が過去とは違っていて、より深い理解が得られるように感じている。

また、誠実に生きるということについて、「誠実に生きようと思えば考えるしかない。」と主張し、教養が不可欠であることを述べています。
大学という点では、ナチズムに繋がったベルリン大学が世俗社会から離れた「象牙の塔」であった反省をふまえて、こう述べています。

大学の主体性は世俗社会に対しての主体性であるということになる。かつての大学は象牙の塔として、あるいはエリート集団としての特権を持ち、世俗社会に対して超然とした姿勢をもっていた。これからの大学はそのようなものではなく、世俗社会の中にありながら、世俗社会を越えた視線をもっている人々の集団でなければならないのである。 (p.141)

この辺のところは、池田先生の思想にも繋がるところだ。第3回創価大学入学式のスピーチ「創造的人間たれ」に、

創価大学は、皆さんの大学であります。同時に、それは、社会から隔離された象牙の塔ではなく、新しい歴史を開く、限りない未来性をはらんだ、人類の希望の塔でなくてはならない。ここに立脚して、人類のために、社会の人々のために、無名の庶民の幸福のために、何をすべきか、何をすることができるのかというこの一点に対する思索、努力だけは、永久に忘れてはならない
(池田大作, 1973年, 「創造的人間たれ」創価大学自治会編『創立者の語らい1』)

とある。目的意識を失った知識ほど危険なものはない。オウム真理教等はその最たるものとして挙げられる。創価大学は、人間主義の哲学を根本として、人間のための価値創造を目指す大学だ。そこを忘れては、創価大学での学問にはならない。

また、この本の最後の方にカール・シュミットという社会学者の言葉を引用している。

人間は自分がおかれている環境にうまく適用している限りでその環境の本質を理解することは出来ない (p.230)

これは、自分にとってすごく意味の大きい言葉だと思えて、感動した。社会不適合というか、まぁ少々「生きづらさ」を感じてきた自分だからこそ、社会を本質的に理解することができるんだという風に思えるから。薄々感じてきたことではあるけど、社会学というのはそういう学問なんだと思う。ちょっと斜めから見るというか、すくなくとも正面から見ていたのでは見えない社会の本質を暴こうとしていて、ただしそれを放っておくのではなくて、社会学は人に問題意識を与えることにもなるし、社会を変えていこうとする気持ちから出発しているんだと思う。

さてさて、授業とこの文献を元に、「比較文化原論小レポート」を書かなくちゃいけないんだけど、うまくまとまらない。文章下手だ。5年前に書いたのはここにあるけど、設問と文字数がちょっと違うし、同じこと書いてもしょうがないし…。妥協できない性格だけに、レポートは困りますねぇ。適当にやろうっと。

Home > Tags > 大学

あわせて読みたい
  • 突然カセットテープやMDなどのメディアのことが気になって目が覚めた。 4 hrs ago
  • 目覚めた。一回は起きちゃうのだよねー。 8 hrs ago
  • 今日は特に何もしてないのに、疲れてる。ので、もう寝る態勢に入った。眠れるかなー。 14 hrs ago
  • More updates...
メタ情報
Get Adobe Flash playerPlugin by wpburn.com wordpress themes

Return to page top