池田名誉会長の写真紀行「光は詩う」
第15回黄金(きん)の花束 2000年1月30日掲載

菜の花を見ると、ほっとする。
何か、懐かしい人にあったような、その人が昔の素朴な心のままで、にっこりと手を振ってくれたような、ほのぼのとした温かさがある。

うららかな春の陽射しの中を、車は走っていた。
米原の滋賀県修道上は、新幹線・米原駅の近く。周囲には、まだ、のどかな田園風景が残っていた。
一九八九年の四月だから、もう十一年も前になる。
琵琶湖から伸びる用水路のかたわらには、レンゲ畑に紅のじゅうたんが敷き詰められていた。

妻と一緒に、しばし車を降りて、農道を歩くと、すぐに菜の花の群が目に飛び込んできた。
その一角だけが、風さえも黄金に輝いていた。
それは、春を待ちこがれた大地が思わずもらした「歓喜」の叫びのようだった。

米原のあたりは、近畿地方の中でも特に厳しい冬に見舞われる。最近は、ずいぶん減ったそうだが、山ぞいでは雪が一メートルにもなることがあった。
雪の重さにも耐えて、耐えて、その下で、じっと自分をつくっていった花たちの健気さを、ほめてあげたかった。時を得て、今、誇らしげに微笑む姿は、花ことば「快活」に、いかにもふさわしかった。

季節の変化は、ありがたいものだ。人間の心は、時に立ち止まったり、悩みにとどこおったりするが、季節は立ち止まらない。先へ先へと変わっていく。その変化が、一人たたずんでいた自分を、そっと背中から押してくれる場合がある。
「あ、もう春」。悩みのある人にとっては、小さな花の黄色ひとつでも、前途の明かりになるときがある。
花に温めてもらいたくて、お金もないのに、一輪だけでも買ってきたい日がある。
花を愛する人は、深い悲しみを知った人なのかもしれない。
悲しみを通して、生きる尊さを知った人なのかもしれない。

一説によると、日本の早春の花の四〇パーセント以上が黄色だという。そう言われれば、タンポポも、山吹も、連翹(れんぎょう)も、まんさくも、そうだ。
ゲーテは「黄色」のことを「光に一番近い色」と呼んだ。
菜の花は地中海周辺が原産らしい。ならば、この明るさは、地中海のまぶしい陽光を、いっぱいに吸い込んだ、なごりなのだろうか。
地中海。交通の大動脈であり、文化の母だった海。そこから、はるかな昔に地球を半周する旅をして、彼女は、この列島にきた。
そして今、日本の地中海・琵琶湖のほとりで、ひとつひとつが小さな太陽として輝いている。

滋賀は湖国。平野部は少なく、耕地面積は全県のわずか二割に満たない。道場の裏手にあたる一帯の田園も、入り江を埋め立てたのだという。
土地は狭く、際立った産業のない滋賀である。しかし、だからこそ「近江商人」のあの地道で、労を惜しまぬ活躍があったのかもしれない。
交通の要所でもあり、実際、滋賀に来ると、関西にも、中部にも、北陸にも、全部につながり、いろんなことが見えてくる気がした。

なずな、なのはな、梨の花。「な」に始まり「な」に終わる、名前の可憐な懐かしさ。
私は、いつも思う。
「人は花に学ばなければ」と。
花はいつも一生懸命だからだ。
なげやりに咲いている花はない。
いやいや生きている花はない。
途中で、へこたれる花はない。
笑うことを忘れた花はない。
過去にとらわれたり、人のあらを探したりしている花はない。

菜の花も、いつも何という明るさか!
「どんなときでも楽しめる。苦しいことでも楽しめる」。その強さを得るまでは、人も死んではいけないのだ。
何があろうと乗り越えていける、その勇気を鍛えるために、「人生を楽しむコツ」を学ぶために、人は生まれてきたのかもしれない。

昔、電灯がつく前、行灯の油は、ナタネの種子からとった。江戸時代には、ナタネを扱う油商人が経済を左右するほどだった。
だから、日本中に「いちめんの菜の花」が広がっていた。
山のふところまで、目がとどくかぎりの菜の花、菜の花。鮮烈な日本の春に、訪れた外国人は一様に感嘆のため息をついた。

今は少なくなった、そんな光景だが、ならば、せめて心の中に「いちめんの菜の花」を広げたい。
人生は長い。耐えるしかないときもある、その時は、耐えて耐えて、祈って祈って、太陽の方へ太陽の方へと、ともかく進むことだ。
今の苦しみも、痛みも、無念も、涙も、すべてがいつか「花」になれ、「花」になれ、勝利の「金の花」になれ。光、光、光、見渡すかぎりの黄金の花畑になれ、と。

まだ一月も終わらないのに、千葉の房総半島や高知をはじめ、温暖な地方では、早くも黄色のじゅうたんが広がっているという。
そう、今日も一瞬一瞬、どこかで「春」が育っている。